本歌取り(ほんかどり)とは?名歌をふまえて詠む、和歌の奥深い技法

おいせ編集部

秋の紅葉を神さまへの捧げ物に見立てた歌、夏の終わりに川辺で身を清める歌、雪の積もった神社の庭を詠んだ歌――。日本の和歌には、昔の名歌の言葉や情景をそっと受け継ぎながら、新しい一首を生み出す技法があります。それが「本歌取り(ほんかどり)」です。

この記事では、本歌取りとはどういうものかをやさしく解説し、神社や祭りにゆかりの深い歌を例に、その味わい方をご紹介します。

本歌取りとは

本歌取りとは、和歌をつくるときに、過去の名歌(=「本歌(ほんか)」)の表現の一部や、その設定・情景・心情の型などを、あえて自分の歌に取り込む技法です。

わずか三十一文字(みそひともじ/五・七・五・七・七)という限られた世界の中に、読み手がよく知っている昔の名歌を重ねることで、一首だけでは出せない重層的な奥行きを生み出すことができます。いわば、誰もが知っている名曲のひとふしを新しい曲にそっと織り込み、聞く人の心になつかしさと新しさを同時に呼び起こすようなものです。

その兆しは早く『万葉集(まんようしゅう)』にも見え、日本で最初の勅撰(ちょくせん)和歌集である『古今和歌集(こきんわかしゅう)』にも、確かにこの技法を用いた歌が数多く含まれています。

やがて「昔の歌の焼き直しではないか」という批判もなされましたが、平安時代の末期にいたって、本歌取りは和歌の技法として確固たる地位を占めるようになりました。その利用の対象は和歌だけにとどまらず、やがて物語の世界にまで広がっていきます。

藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)が編んだ『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』、そしてその子・藤原定家(ふじわらのていか)が編んだ『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』には、実に多種多様な本歌取りの歌が収められています。

本歌取りの味わい方

本歌取りの歌をより深く楽しむコツは、「この歌は、どんな昔の歌をふまえているのだろう」と想像しながら読むことです。

昔の歌人たちは、共通の教養として数多くの名歌を暗記していました。だからこそ、新しい歌の中に昔の一首の面影を見つけると、その二つの歌が響き合い、時代を超えたつながりを感じ取ることができたのです。

そして興味深いのは、神社に伝わる歌の多くが、「幣(ぬさ)」や「みそぎ」といった祭りの心を詠みながら、この本歌取りによって世代から世代へと受け継がれてきたことです。ここからは、その代表的な三つの情景を味わってみましょう。

実例で味わう本歌取り

一、秋 ―― 紅葉を「幣(ぬさ)」に見立てて

このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま) もみぢの錦 神のまにまに

これは、学問の神さまとして知られる菅原道真(すがわらのみちざね)公が、宇多上皇(うだじょうこう)のお供をして旅に出たときに詠んだ歌です。

【現代語訳】 今度の旅は急なことで、道祖神(どうそじん)に捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。せめて、この手向山(たむけやま)の美しい紅葉を幣として捧げますので、神さま、どうか御心のままにお受け取りください。

この歌には、いくつもの技法が込められています。

  • 「このたびは」……「たび」は「旅」と「度(たび)」の掛詞(かけことば)で、「今度の旅は」という意味になります。
  • 「幣(ぬさ)もとりあへず」……「幣」とは、色とりどりの木綿(ゆう)や錦、紙を細かく切ったもので、旅の途中、道祖神にお参りするときに捧げる供え物です。「とりあへず」は「用意するひまもなく」という意味です。
  • 「手向山(たむけやま)」……山城国(やましろのくに/今の京都府)から大和国(やまとのくに/今の奈良県)へ越える峠を指すと同時に、「神に幣を捧げる」という意味の「手向(たむ)け」が掛けてあります。
  • 「神のまにまに」……「神の御心のままに」という意味です。

昔の人は、旅に出るときに神さまへの捧げ物である御幣(ごへい)を携え、道中の道祖神にお供えして旅の安全を祈りました。この歌で道真公は、その御幣の代わりに、目の前に広がる見事な紅葉を捧げようというのです。秋の山を錦の織物に見立てた、あでやかな情景が目に浮かびます。

じつは、この「紅葉を幣に見立てる」という発想には、先行する歌がありました。

もみぢ葉を 幣(ぬさ)と手向けて 散らしつつ 秋とともにや 行かむとすらん

こちらは、紅葉を幣として神に手向けながら、散りゆく紅葉とともに秋も過ぎ去っていくのだろうか、と詠んだ歌です。「もみぢ(紅葉)を幣(ぬさ)とたむく(手向く)」という言葉と発想を受け継ぎつつ、静かな秋の山の中で、心が旅に出たかのような非日常の感覚が重ねられています。

このように、「紅葉=幣」というひとつの美しい発想が、歌人から歌人へと手渡され、そのたびに新しい味わいを加えられていく――これこそが本歌取りの魅力です。

道真公といえば「東風(こち)吹かば……」の梅の歌が有名ですが、このように秋を詠んだ歌にも、心にしみる名歌が数多くあるのです。

二、夏 ―― 「みそぎ」と夏越(なごし)の祓(はらえ)

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

新古今の時代を代表する歌人・藤原家隆(ふじわらのいえたか)の一首です。

【現代語訳】 風が吹いてそよそよと楢(なら)の葉を鳴らす、ならの小川(京都・上賀茂神社〔かみがもじんじゃ〕の境内を流れる川)の夕暮れは、まるで夏を忘れるほどに涼しい。それでも、みそぎ(禊)が行われているのが、今がまだ夏である証なのだなあ。

「みそぎ」とは、神道において、川や海の水で身に付いた罪や穢(けが)れを洗い流し、心身を清める儀式です。とりわけ夏に行われるみそぎは、六月の晦日(みそか/月末)に行う夏越の祓(なごしのはらえ)として知られ、半年分の穢れを祓い清めて、残る半年の無事を祈る大切な神事です。

夕暮れの涼しさに秋の気配さえ感じられる中で、「いや、みそぎが行われているのだから、まだ夏なのだ」と念を押す――そこに、季節の移ろいと清らかな神事とが溶け合った、澄んだ美しさが生まれています。

この家隆の歌もまた、本歌取りの一首です。ふまえられている古い歌には、

  • みそぎする ならの小川の 川風に いのりぞわたる 下に絶えじと(人知れぬ恋が絶えないようにと、ならの小川で祈り続ける、という恋の歌)
  • 夏山の ならの葉そよぐ 夕ぐれは ことしも秋の ここちこそすれ(楢の葉のそよぐ夕暮れに、今年も秋の気配を感じる、という季節の歌)

があります。家隆は、この二つの歌の言葉と情景を受け継ぎながら、それを神さまに捧げる清らかな神事の歌へと昇華させたのです。恋や季節を詠んだ歌が、本歌取りを通じて、神前の祈りの歌へと生まれ変わっている点に注目してみてください。

三、冬 ―― 雪の積もる社頭(しゃとう)の美

ゆふしでの 風にみだるる 音さえて 庭しろたへに 雪ぞつもれる

『新古今和歌集』巻第十九「神祇歌(じんぎか)」に収められた、按察使公通(あぜちのきんみち)の一首です。「社頭の雪」という題で詠まれました。

【現代語訳】 木綿四手(ゆうしで)が夜の風に吹き乱され、冷たく冴えた音をたてている。そして神社の前庭は、真っ白に雪が積もっていることだ。

「ゆふしで(木綿四手)」とは、木綿(ゆう)で作った四手(しで)のことで、神前に供える幣(ぬさ)の一種です。玉串(たまぐし)や注連縄(しめなわ)などに付けて垂らします。

寒風に揺れる白い木綿四手の、冴えた音。そして、しんと降り積もる真っ白な雪。「しで」の白と「しろたへ(=真っ白)」の雪とが響き合い(この二つは縁語〔えんご〕の関係にあります)、冬の神社ならではの、清らかで張りつめた美しさを描き出しています。

冷え込む夕暮れに神社を訪れると、参道や境内は雪におおわれ、風に木々がざわめく中に、深い静寂と澄んだ空気が漂います。その静けさが、神聖な空間をいっそう引き立て、参拝する人の心を清めてくれるのです。冬至や年末年始の神事とともに、冬の神社は、静かな美しさの中で自然と神々への感謝を深める、特別な場所となります。

まとめ ―― 歌に受け継がれる、神さまへの心

本歌取りは、単なる言葉遊びや模倣ではありません。昔の名歌に敬意をはらい、その心を受け継ぎながら、新しい一首に生まれ変わらせる――時代と時代とを結ぶ、豊かな技法です。

そして今回見てきたように、「紅葉を幣に見立てる心」「みそぎで身を清める心」「幣を垂らして神を迎える心」といった、神さまを敬う祭りの心そのものが、本歌取りという技法を通じて、幾世代にもわたって歌の中に受け継がれてきました。

神社で和歌に出会ったときは、その一首がふまえている遠い昔の歌と、そこに込められた神さまへの祈りに、そっと思いをはせてみてください。三十一文字の向こうに、はるかな時間のつながりが見えてくるはずです。

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